寝たきりの人、車椅子の人、点滴をガラガラ引きずって歩いている人、すたすた歩いてるけど何かをぶつぶつ言ってる人、ナースにいつも同じ質問をしている人、頻繁に怒鳴ってる人、ずっと泣いている人、いつも何かを叫んでいる人、力いっぱい壁を叩いている人…
年齢的には60〜90歳代だ。
志村けんみたいな人が三人いて、それぞれ別の部屋なのにずっと「あ”ぁ〜」「あ”ぁ〜」
と息ぴったりの合唱というか輪唱というかをいつもしていて、たまに他の人のスクリームのコーラスが入ったりすると、それはもう厚みのある合唱団になった。団員以外の者たち(医師やナースも含む)はそれをBGMに過ごした。
なんかよくわかんないけど脳の病気って大変そうだな、というのが脳みそ異常なしのボクの最初の感想だ。初日は内心びびってたけど、意外とすぐに慣れた。
ボクの部屋も例外ではなく、ボクの二人暮らしの相方のマダムもすごかった。なんでマダムかと言うと、パジャマが高そうなのといつも真っ赤な口紅をしているから。
マダムとの初夜は本当に怖い思いをした。
消灯時間も過ぎた暗闇の中、マダムがカーテン越しに話しかけてきたから普通に受け答えしていたら、実は錯乱していたマダムは突然怒鳴り出し、カーテンを引き裂かんばかりに開けてボクのベットに乗り込んできた。白目をむいて。真っ赤な口で。
テレビから這い出てきた貞子のようでも、足を撃ち抜かれて這ってくるゾンビのようでもあった。ボクはあまりにもびっくりして目を見開いたまま固まってしまった。
たまたま通りかかったナースが慌ててマダムをボクから引き離し、即座に部屋のレイアウトを変えてマダムをベットごと壁側に追いやってくれた。
「もしまた何かあったらすぐ呼んで」とナースに言われ、ボクは小刻みに首を縦に振るのが精一杯だった。自分の心臓の音に恐怖心があおられた。今まで見たどんなホラー映画よりも怖かった。とんでもない所にきてしまった、と思った。
でも、これも何日かしたら慣れた。
ボクは特にクレームは付けず、夜にはマダムの口紅を落としてくれとだけナースにお願いした。だって怖えーよ。
その後もマダムは幻覚を見ては大騒ぎしたり、錯乱して叫んで暴れたり、泣いて自分の悲しみを訴えてきたり、優しく話しかけてきてはボクに同情を求めたりしたけど、ボクはそれら全てを無視することにした。だってボクは自分の病気を治すためにここにいて、ボクの仕事は自分のメンタルを良い位置に維持しておくことだから、マダムに感情移入してエネルギーを無駄づかいしてはいけない。だからマダムの存在だけは認めて、彼女がまき散らすものは全部無視した。正確には、マダムに引きずられないようにした。
マダムが何かを倒して、ガッシャーンと大きな音がしたときなんかはいちいちびびったけど、しだいに、心を乱さずにてきとーな相づちを打てるようになってきた。マダムの話のほとんどを「うん」で返した。ボクを自分の旦那さんに見立てて、「ねぇあなた」と泣いてきても「うん」と返した。返事をしないと「アナタ!聞いてるの?」と怒り出すから。
「ねぇあなた、佐々木さんに今度レンジを見てもらってくださらない?」「うん」
「ねぇあなた、私、パールのネックレスを無くしてしまったの」「うん」
「ねぇあなた、私、あの時とても淋しかったのよ」「うん」
「ねぇあなた」「ねぇあなた」「ねぇあなた」…
(うるせぇんだよ!つーか、何の修行だよ、これ!)と思ってしまったらまだまだ甘い、
という「うんの修行」だ。いっそのこと、志村けん合唱団に入れてもらってコーラスの修行をしたいと思ったけど、それはきっと「隣の芝は青い」的なことだろうな。うん。
つづく